そば切りの発祥の地はどこなのか?うどんとそばはどっちが先?

こんにちは、常陸屋です。今日は、そば切り発症の地について調べてみましたので、記事に書いていきたいと思います。

そば切り発祥の地はどこなのかを、本を読んだりネットで調べてみたのですが、いろんな説があってハッキリとはわかっていないようです。

まーそのような諸説あってわからないということが、面白いのですけどね。なので、僕なりに調査したことを書きましたので、お付き合いください。

また、うどんとそばはどっちが先に食べられていたのかも、ググってみました。それでは、一緒にみていきましょう。

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そば切り発祥の地はどこなのか?

今回の記事は、「そばの本 高瀬礼文(文化出版局)」を参考にさせていただきました。アマゾンでは売り切れのようでした。Yahoo!ショッピングでかろうじて中古で売っていました。

この本によると、以前のそばはそばの実を茹でたりして食べていました。その後、そば粉にできるようになると、団子にして茹でたり、薄く焼いて食べていました。

そば切りとはいわゆる麺状のそばの事で、もりそばなどの、「麺」のそばですね。

そば粉を団子にしたものを、そばがきとよんでいたので、それと分けるために、麺状のものをそば切りとよんでいたようです。

さて、そば切りの発祥の地ですが、高瀬礼文さんによると、諸説あってハッキリとはわかっていないようです。

この本には、2つの説が書かれています。

・甲州・天目山説(棲雲寺(せいうんじ)山梨県甲州市大和町木賊122)

・信州・本山宿説(長野県木曽郡楢川村(ならかわむら)現在は塩尻市)

どちらがそば発祥の地なのかはわかっていないようです。

そのほか、ネットで調べてみると、Wikipediaでは、そば切り発祥の地は

長野県木曽郡大桑村大字須原831-1の定勝寺(じょうしょうじ)でないだろうか?と書かれています。

それは、1574年の書物に「振舞ソハキリ 金永」と書かれていたからだという説です。

そのほかにも、博多駅から近い「承天寺」には、「饂飩・蕎麦発祥之地の碑」という石碑が立っているので、ここがそば発祥の地という意見もあります。

いずれにしても、どれもハッキリとした確証がないようで、どこがそば切り発祥の地なのかはわかっていないのが実情のようです。

うどんとそばはどっちが先に食べられていたのか?

うどんの歴史にも諸説あって、どれが正しいのかはわかっていないようです。でも、結論からいってしまうと、古いのはうどんのようです。

これは、いろんな方が麺状になったのは、うどんの方が早いと書いています。

小麦が中国から日本に伝わったのが、奈良時代で小麦粉を練って団子にして食べていました。

その後、麺状にして食べられた記録としては、うどんよりもそうめんの方が古いようですね。

1343年の八阪神社の『祇園執行日記』にそうめんという文字が出てくることから、この頃にはそうめんが食べられていたようです。

うどんが出てくるのが、1352年に奈良の法隆寺の史料『嘉元記』にうどんの言葉が出てくるようで、そうめんよりは少し遅れているようです。

このころの製法は、手で伸ばして手で切っていたようで、麺棒で伸ばして、包丁で切るのは、室町時代の後半になってからです。

なので、うどんの製法を使って、そば粉で麺状にするようになったので、歴史ではうどんの方がそばよりも古いということになります。

先ほど書いたそば切り発症が1574年だとすると、うどんが登場してから200年ぐらいあとですね。しかし、文献に残っているものは、みんなお寺や公家が記しているものです。日本各地の農家では自分のところで、採れたそば粉で麺状にして食べていたのかもしれません。

室町時代の頃の農家には、ノートもペンもなかったし、パソコンもなかったので、記録が残っていないでしょう。(笑)

農家が普通に食べていたものが、後から幕府や公家に伝わって、広まって行ったようです。

まとめ

もう一度そば切り発祥の地の諸説をまとめてみますと、

  • 甲州・天目山説
  • 信州・本山宿説
  • 信州・定勝寺
  • 博多・承天寺説

これだけあるようだということがわかりました。今後学者さんが追求していくのかはわかりませんが、ハッキリとさせるのは難しいのでしょうね。

茨城の県北の地域でも昔からそばは採れていたようですが、このような文献には出てこないようですね。僕の感想ですけど、多分同じ頃に茨城でもそば切りが食べられていたと思います。あくまでも個人的な感想です。

もしかして、調べてみたら茨城がそば切り発祥の地だったりして!なんて思いながらそばを食べるとさらに美味しくなりますね。ではまた!